みなさんには、「恩師」は何人くらいいるでしょうか?
小・中学校の同窓会には、当時の先生達は「恩師」として出席されていますし、実際に恩師である事に違いはありません。
私にとって「恩師」というのは、勉学を教えてくれた先生だけで無く、もっと広義で捉えていますので、私の恩師は本当にたくさんいます。
私は歯科大学を卒業してからすぐに矯正科の医局に入局しましたので、矯正学講座の教授である出口敏雄先生は恩師の筆頭であり、今もたいへん御世話になっています。
一方では、個人的な交流は一切無しで、教授と一学生以上の付き合いは無かったけれども、間違いなく私自身の人生に大きな影響を与えた「恩師」がいます。
そのお方は、橋本京一先生、私が学生時代、補綴学第1講座の教授であらせられ、講義や基礎実習、臨床実習などで御世話になりました。
私が卒業した当時の補綴科診療室で指導をされる橋本先生(卒業アルバムから)
今から35年前、歯科医師を志して松本歯科大学に入学し、専門課程が始まると、授業が楽しくて仕方が無かった毎日。
私達の学生時代には、大学に「名物教授」が何人もいらっしゃって、この先生の授業を受けられる、この先生から教われるということが、どれほど有り難い事かと、胸を弾ませて一生懸命勉強をしたのが昨日の事のように思います。
橋本先生は、その名物教授の中の1人で、当時は、学生も補綴科の医局の先生達も、橋本先生のことを「コワイ」と言っていましたが、私自身は記憶の限りでは今まで橋本先生の事を「コワイ先生」と思ったことは無く、むしろ、「自分はこうありたい」、「歯科医師は かくあるべき」と、自分の理想の歯科医師像として、人間としての憧れを抱いていました。
「コワイ先生」と評されたのは、私が思うに、橋本先生は全てに対して、ものすごく厳格な先生であるからだと思います。
いい加減な事や、妥協を許さない。
橋本先生は、何故に全てのことに一切妥協をしないで、そこまで厳格に生きられるのか。
それは、「常に自分に対して一番厳格であるから」だと、私は思っています。
橋本先生が仰る事は、全てスジが通っており、肯定するにも否定するにも、必ずそれを裏打ちする理論と理由が存在しています。
私が卒業した当時の橋本先生(卒業アルバムから)
私が卒業した当時の補綴学講座(卒業アルバムから)
学生当時、私は大学を卒業したら dentureか矯正のスペシャリストになろうと決めていました。
いろいろな理由で出口教室に入局しましたので、橋本先生とは特に交流を持つ機会も無く、何年もの歳月が流れました。
ところが最近、Facebookで橋本先生とお近づきになることが出来、橋本杯ゴルフコンペを計画したり(荒天のため中止になりましたが)、メールでやり取りが出来る状況となりました。
先生は歯科大のゴルフ部の顧問をされていましたが、自分はゴルフ部でもなかったし、先生は覚えていらっしゃらないだろうなと思っていたのですが、先生から松本歯科大学の観桜会で塩尻に行くので会えますか、とメールを頂き、私は大喜びで ひろ矯正歯科の診療室にお越し頂きました。
私が卒業した当時のゴルフ部(卒業アルバムから)
お会いして驚いたのは、先生は私の学生時代の頃のまま 35年間、全く変わること無く、とてもお元気でいらっしゃり、御自分で車を運転していらっしゃいました。
今も現役で歯科医師として診療をしていらっしゃるだけでなく、講演活動も活発に行われていらっしゃいます。
東京に講演に行かれる際にも、名古屋から御自分で車を運転されて行かれるということは FBで読んで知ってはいましたが、凄すぎる、の一言です。
ひろ矯正歯科の中を一通り御覧頂いた後、先生はプロジェクターとパワーポイントを使って、私一人のために3時間程の講義をして下さいました。
その講義たるや、まさに学生時代に教わった「橋本教授」そのもので、35年前の事だけでなく、先生が戦争に行かれた頃の写真や、当時の医学的状況はじめ、いろんな事をまさに昨日の事のように、はっきりと覚えていらっしゃっいました。
レクチャー以外にも、とても大切なことをいくつか教えて下さいました。
例えば「廣先生、手を拭くのにペーパータオルを何枚使いますか? 2枚使っていますよね? 手を洗った後、手をこうやって10回振って水を切ってから拭くと、1枚で済みます。そして、拭いたペーパータオルは、ゴルフボールくらいの大きさに丸めて捨てると、ゴミの量が何分の1かになります。」といったような事です。
このような事を言うと、「五月蠅い」とか「ケチ」と思う人が多いのですが、私はこうゆう細やかさを常に忘れない、これぞまさに「橋本流」、感激しました。
ケチで言っているわけでは無く、「無駄な事はしない」ということを徹底する。
それは裏返せば、必要な事をするためには、無駄な事をしている時間はない、ということなのです。
ひろ矯正歯科には、その日以来、ペーパータオルの置いてある場所には、「1枚で十分」、「使用後はゴルフボール大に丸めて捨てること」と、張り紙をしました。
先生は、診療の傍ら、ある医療法人の人事も担当されていらっしゃるそうで、お話の中で、「この間も面接をしたんですが、『あなたのような人は、今すぐこの医院から出て行きなさい』、そう言ってやりました。」と仰っていましたが、最近は、ちょっと注意すると、相手が誰であろうが、自分が間違っていようが、一切お構いなしに食ってかかるという、まったく子供のような歯科医が多いことは、私も同感です。自分の持てる知識を何一つ隠すこと無く全て教え、将来のことまで見据えて親身に考えてくれている人に対して、喧嘩を売る、罵倒する、そんな愚か者と過ごす時間は、私は 1分たりとも持ち合わせていません。
橋本先生はレクチャーの内容もさることながら、見やすいスライドの作り方や注意点など、いろんな事を教えてくださり、1人で聞くのは本当に勿体なすぎましたので、機会があれば、人を集めてご講演を頂きたいと思っております。
レクチャーの後、松本市内の仏蘭西料理店にご案内し、晩御飯を御一緒させて頂きました。
先生はお酒は一切お召し上がりにならない、「飲めない」のではなく、「飲まない」。
そのスタイルを若い頃から頑なに通していらっしゃるそうで、ここにも「橋本哲学」を感じました。
橋本先生、お忙しい中、お時間を頂きまして、本当に有り難うございました。
いつまでも現役で御活躍されますことをお願いいたします。
仏蘭西料理の「メゾン ド ヨシダ」にて。
先生と一緒に食事が出来たことを、本当に光栄に、有り難く思います。
2013年2月7日、私の最も尊敬する、最も大切な親友である、パリ大学矯正歯科の教授であるDr.Alain Deckerが永眠しました。
あまりのショックと悲しみに、何も言葉が出ません。
診療中は、患者さんの治療に集中していますが、診療が終わって帰宅すると、悲しくてしょうがないです。
ひろ矯正歯科の院長日誌に書くべきネタでは無いようにも思いますが、人が死ぬということは、どうゆう事か、生きるということはどうゆう事か、今一度、皆さんも考えて頂きたく、書くことにしました。
Alainは、2011年、大阪でのWSLOの際に、彼を含めた十数名が私の医院に見学に来る予定でした。
松本城観光に始まり、典型的な日本料理での晩御飯を用意していたのですが、3月11日の福島原発事故でフランス政府は日本への渡航禁止令を出したために、残念ながら来日中止となってしまいました。
昨年、パリで一緒に食事をしている時に、「日本に遊びにおいでよ」と誘ったら、「もう少しでパリ大学をリタイアする、そしたらイギリスに引っ越すんだ、だから今、イギリスに家を作っているんだ、そっちが忙しいから無理だ」と言いました。
もしかしたら、その時、彼はすでに彼自身の余命について悟っていたのかも知れません。
パリでの夜は、私が牡蠣が好きなので、高級なレストランを予約してくれ、私が生牡蠣を片っ端から平らげるのを見て、何回も何回もおかわりを注文してくれました。
超一流レストランでのワインと生牡蠣、途方も無く高額なディナーだったと思います。
今年の春は私が彼を招待して、彼の好きな物を腹一杯喰わせてやろうと思っていたのに、、、叶わぬ夢となってしまいました。
最近、悲しい事件が多すぎます。
東北の震災で命を奪われた人達。
笹子トンネルの管理不行き届きから命を奪われてしまった人達。
コネチカットで銃乱射、命を奪われた人達。
LAで冤罪を主張し、警官を逆恨みしての警官殺人。
Guamでの無差別殺人。
今朝、朝御飯を一緒に食べ、行ってらっしゃい、と、手を振って送り出した家族が、帰らぬ人となる。
ついさっきまで、そこで一緒に御飯を食べ、一緒に酒を飲んでいた人が、酒を買いに行ったまま帰らぬ人となってしまう。
人の命なんて、なんとはかない、なんとあっけないものでしょうか。
でも、人間である以上、いつか死ぬ。
必ず死ぬ。
死なない人なんていません。
いつ死ぬかわからないから、出来るだけ手を抜き、出来るだけ楽をするんだ、自分中心に生きるんだという人もいます。
でも私は、いつ死ぬかわからないからこそ、常に自分に出来る限りのことを精一杯頑張って生きなければならない、自分は最後にして、人のために生きなければならない、と考えます。
そして、自分一人で生きているわけではない、自分一人の力で今の自分があるのではないということを常に肝に銘じ、恩を受けた人に恩を仇で返すことが無いように生きて行きたい。
人間は、いろんな人の恩を受けて生きています。
親、恩師、友人、家族、、。
私の親は現在、82才と80才で、幸いにも両親とも健在です。
いつまでも元気でいて貰いたいと、毎朝手を合わせますが、いつ、何処で、どうなるかわからない。
私の親は、とんでもない苦労をして私を歯医者にしてくれました。
歯医者には、親が医者や歯医者で、何の苦労も無しに歯医者になった、開業する時には、土地付き、医院付き、患者付き、スタッフ付き、借金無し、という先生が多いです。
それを妬む気持ちは全くありません。
事実として言えるのは、私の親は、喰う物も喰わないで私を歯科大に入れてくれたということで、これがどんなに大変な事か学生時代は全くわかりませんでしたが、卒業して自分で働くようになって、やっとわかりました。
今、私は矯正歯科医として成功していますが、今の私でさえ、子供が私立の歯学部や医学部に入りたいと言ったら、「頑張って国立に入って頂戴」、と言わざるを得ません。
だから私は、恩を全うするために出来る事は、私自身が最高の歯医者になること、それ以上の恩返しはないだろうということです。
金目当てで歯医者をしている、金目当てで矯正歯科医をやっている先生もいます。
私はお金なんかどうでもいいです。
正直、お金は欲しいですが、それよりももっと大事なことは、最高の治療をすること、最高の矯正医になることだと考えます。
恩師への恩返しについても同様に考えます。
自分の食べる分を取り分けておいて、子供には与えない親がいます。
自分は飢えていても、自分は我慢して、子供に食させる親もいます。
人生の価値観、家族や回りの人への価値観は人それぞれでしょうが、私は最低限、御世話になった人が死んだあとで、「ああしておけば良かった」、「あんなこと言うんじゃなかった」と後悔したくない。
そう考えて、精一杯、毎日生きています。
患者さんの治療にも、スタッフに対しても、家族に対しても。
患者さんや、スタッフや、家族の期待を裏切らないように。
Alainとの思い出を slide showにまとめました。
興味ある方は御覧下さい。
先日送別会を行った旧姓青沼さん&旦那さんが営む美容院 “HbK”に行ってきました。
旦那さんの響さんは、かなりのセンスと腕前で、うちの丸山さんも川端下君も大変身しました。
僕はいつもカットだけの安いお店ですが、この日は娘の髪を切って貰うために連れて行きました。
店内は、青沼さんと旦那さんが自分で壁塗りをしたとのこと。
何年経っても忘れることの出来ない思い出になる貴重なお店ですね。
玄関ドアはじめ、いろんな調度品はVictorian craftで選んだという、お洒落なお店に仕上がっていました。
お店に着くと、うちのスタッフのmaruさんと山ちゃんも来ており、みんなでワイワイと楽しいひとときを過ごすことが出来ました。
働くということ、自分でお店をやるということは、いろんな責任がついて回りますので、本当に大変です。青沼さんもひろ矯正歯科にいてくれた頃は、本当によくやってくれました。
楽しいことばかりではなく、時にはメチャンコ厳しく叱ったことも何度かありましたが、最後までキチンとひろ矯正歯科の仕事を全うしてくれました。
旦那さんと2人力を合わせて頑張って、人生を楽しく生きてください。
中村さん、青沼さん、今後ともよろしくお願いします。